英文ニュースレター「Elea.notes」でインタビューが配信されました『本を読めなくなった人たち』
- 2026.04.03

ロンドン在住のライター/ジャーナリストのEleanor Warnockさんから受けたインタビューが、ニュースレターElea.notesで配信されました。自動翻訳でもいいのでぜひ読んでみてください。構成がすごく端正で気に入ってます。
●The people who can no longer read
https://www.eleanot.es/p/the-people-who-can-no-longer-read
日本語で話した内容を日本語原稿として読むのと、日本語で話した内容がいちど英語原稿になり、それをAIとかで和訳して翻訳文体として読むのとでは、なんというか、匂い立つ〈知性の種類〉が明らかに違ってて、すごくおもしろい。
なおEleanorさんは元ウォールストリート・ジャーナル東京支局の記者で、日本語は超絶的にペラペラでした。

【おまけ】以下、Geminiによる日本語訳
「本を読めなくなった人たち」
稲田豊史が語る「なぜ賢い人が本を読まないのか」「AIに代替できないもの」「本の進化の必要性」
著者:エレノア・ワーノック
2026年4月3日
ライターを憤慨させたいなら、「読書文化の終焉」について聞いてみるといいでしょう。私たちは、スマートフォンやSNSのせいで数行以上の文章を消化できなくなったと嘆くのが大好きです。人によっては、こうした退行を「文明の危機」の前兆だと捉えることもあります。
だからこそ、ノンフィクション作家・稲田豊史氏の近著『本を読めなくなった人たち』は、非常に新鮮に感じられました。稲田氏は10年以上にわたり専業作家として活動しており、自身の言葉に代価を払ってもらうことで生計を立てています。それにもかかわらず、彼は読書の衰退を切り捨てるのではなく、好奇心と公平な視点を持って向き合っています。
本書は現在のところ日本語版のみの出版であるため、彼の考えを世界の読者に紹介できることを嬉しく思います。彼の結論はこうです。「読まないこと」は、効率が最優先され、動画が手軽に手に入り、文章は無料であることが当たり前となった世界に対する、合理的かつ適応的な反応である――。
要点(Key Takeaways)
「本を読まない賢い人々」が存在する
「本を読まない人は知的能力が低い」という思い込みを捨てる必要があります。読書という行為が、彼らのライフスタイルや情報の消費スタイルに合っていないだけかもしれないのです。
現代の書き手にとって、ルポルタージュは極めて価値の高いスキルである
インターネット上のどこにもまだ存在しない情報を、いかにして読者に届けるか。現場を歩き、一次情報を引き出す力が鍵となります。
作家と本は進化しなければならない
出版・メディア業界は、読者が「昔ながらのコンテンツ」を消費しないと不満を言うのではなく、現代の視聴者のライフスタイルや嗜好に合ったフォーマットを提供していく必要があります。
――この本を執筆し、このテーマに取り組もうと思った動機は何だったのでしょうか?
理由はいくつかありますが、最大の理由は、書くことで生計を立てている人間として、文章の経済的価値が低下していることを痛切に感じたからです。インターネットは根本的に「無料で読む場所」であり、文章にお金を払う習慣が失われてしまいました。ある意味では、自分自身の傷口を拡大鏡で覗き込むような作業でした。
それに加えて、長年議論されている出版不況や、情報を得る手段がテキストから動画へと世界的にシフトしている現状もあります。自分自身の経験も含め、それらすべてを一冊の本にまとめたいと考えたのです。
――本のタイトルは『読めなくなった人々』ですが、この「人々」をどのように定義していますか?
2,000文字の記事を読む代わりに5分の動画を見るのは、怠慢ではなく「合理的」な判断です。この現象に名前が必要だと思い、私は「非読(ひどく)」という言葉を作りました。日本語には「不読」というニュートラルな言葉がありますが、「非読」にはある種の判断が含まれています。つまり、読むこと自体が不合理な行為、無意味に感じられるものになってしまったということです。人々はそれを言葉にせずとも、社会全体が徐々にその方向へ動いています。
かつては少数のグループでしたが、若者から始まり、今や社会人にも広がっています。それに応じる形で、メディア側も動画を増やしています。こうした環境の変化に適応する中で、人々は「読む能力」を失っていきました。その筋肉を使う必要がなくなったのです。ですから「読めなくなった人々」には、長文に苦労する現代の若者だけでなく、かつては読めていたのにネットコンテンツの消費に慣れて読めなくなってしまった中高年も含まれます。能力が欠如しているのではなく、社会に適応した結果として失われたのです。
――この本のユニークな点は、トレンドを評価するのに第三者の調査データに頼るだけでなく、大学生へのグループインタビューを自ら行ったことですね。どのように実施したのですか?
これは私のルポルタージュにおける定番の手法です。まず知人の教授に連絡し、学生を紹介してもらいます。大講義室でボランティアを募るようなやり方は良くありません。そこで手を挙げるのは、すでにメディア論などに関心がある層であり、サンプルが偏ってしまうからです。
「アンケートの方が簡単では?」と思うかもしれませんが、これは本のテーマそのものに繋がります。ほとんどの人は、自分の考えを文章で正確に表現できません。でも、しゃべることはできる。「これはどう?」「なぜそう思う?」と矢継ぎ早に問いを投げかけ、やり取りの中で引き出していく。そうした会話からしか出てこない情報があるのです。
また、個別ではなくグループで行う理由もあります。一対一では緊張して話せない人でも、誰かが話題を出すと「あ、そういえば自分もそう感じていた」と刺激される。グループ討論は、一人で考えているときには出てこないものを表面化させてくれます。
もう一つ重要な点は、紹介してくれた教授を同席させないことです。先生がいると、学生は評価を気にして「優等生的な回答」をしてしまいますから。
――統計データには現れなかった、グループインタビューならではの発見は何でしたか?
最大の発見は、「本は読まないけれど、知的に非常に鋭い子たちがいる」ということでした。これは読書家たちが受け入れがたい事実です。私たちは「本を読まない=頭が良くない」と思い込みがちですから。
対面インタビューでしか分からなかったのは、読書習慣のない学生たちが、会話においては驚くほど明晰だということです。彼らの回答は的確で、コミュニケーション能力も高い。現代のビジネスにおいて最も重視されるのはコミュニケーション能力ですが、それは本を読むかどうかとはほとんど関係がないことが分かりました。
もちろん本から得られる知性もありますが、他のソースから得られる知性もあります。私自身、子供の頃は文芸小説を読み耽っていたわけではなく、マンガやアニメ、ゲームを消費していました。そして、上の世代が認めがたかった「それらを通じた知性」を育んできました。これはいつの時代も言われてきたことです。映画が登場したときも、きっと「映画を観ると馬鹿になる」と言われたはずです。
――「本を読まない人も知的でありうる」というのは、確かに認めがたい真実かもしれませんね。では、読まれている「コンテンツの質」についてはどうお考えですか? 小説を好む人もいれば、ビジネス書を好む人もいますが。
本の中で、私は「読者(リーダー)」と「消費者(コンシューマー)」を区別しています。消費者は本から情報を引き出そうとします。「これだけ払ったのだから、これだけの情報を得たい」というコストパフォーマンスで考えます。一方、読者は「読むという行為自体」に意味を見出します。何かを得るためではなく、脳を動かし続けるために読むのです。
これは筋トレに似ています。トレーニングで重要なのは、筋肉に負荷をかけている「時間」そのものです。長く続ければ、それだけ強くなる。
食事に例えるなら、消費者的な読書は「炭水化物」を摂るようなものです。食べれば5分後には動けます。一方、読者的な読書は、肉やチーズ、プロテインのような「吸収の遅い食べ物」です。すぐにはエネルギーになりません。時間をかけ、運動と組み合わせて初めて体を作っていく。どちらが良いと言っているわけではありませんが、長く自分の中に残る読書を求めるなら、この「遅い」種類のものが必要です。そうでなければ、本当の意味で血肉にはなりません。
――読むことが「不合理」になりつつある世界で、書き手の仕事はどう変わっていくのでしょうか?
作家は、産業革命で職を失った職人と同じような立場にあります。職人の作るものの質を評価する人はいますが、その数は減り続けている。AIが書いたか人間が書いたか気にしない人が増え、文章自体の価値は下がっています。
生き残るためには、強力な個人的衝動から生まれた作品を書く必要があります。「この私という人間だからこそ、書かざるを得なかった」というものです。単に「上手い文章」や「整理された文章」にお金を払う人はいません。
「テキストにお金を払いたくない」という人々の心理は変えられません。だから書き手は、「無料で読めるもの」とは一線を画すものを書かなければならない。生成AIがネット上の情報から組み立てられるものは、実質的に無料です。机に座ったまま生み出せるものには、もはや価値がありません。
残されているのは、グループインタビューのように「実際に生身の人間から話を聞く」ことで得られるものです。検索では出てこない情報です。有名人が言ったことはすべてネットにありますが、地方の農村のおばあちゃんがポロッと言った素晴らしい言葉は、聞いた私しか持っていない。そこに価値が生まれます。
――つまり、取材スキルが極めて重要になるということですね。ジャーナリストであるあなたにとっては朗報では?
その通りです。現場を歩き、人から話を引き出す能力。卓越したコミュニケーション能力を持つ書き手だけが生き残るでしょう。
昔は、内向的な作家でもやっていけました。しかし今は、生き残るために外向的に振る舞わなければなりません。現場に足を運び、愛想を振りまき、SNSで人々と交流する。
――SNSといえば、出版界や既存メディアの人間はTikTokやXを軽視しがちです。しかしあなたのお話はその逆で、書き手として成功するにはTikTok並みに魅力的なコンテンツを作る必要がある、ということですね。
SNSの内容が低俗か高尚かは別の問題です。しかし、その「見せ方のテクニック」は誰もが学ぶべきです。視聴者を飽きさせない編集技術は実に見事です。実際、テレビの編集もすでにYouTubeやTikTok的な手法に収束しつつあります。
文章も同じです。古参の書き手は、結論を先に持ってくるネット的な文章を見下します。しかし、要点にたどり着くまで延々と回り道をする文章は、もはや時代に合いません。5時間も続くオペラや旧来のミュージカルのようなものです。現代人のライフスタイルに合っていないのです。映画だって、2〜3時間も同じ席に座り続けるのは今の生活リズムと乖離しつつありますが、あの形式は何十年も変わっていません。
内容の密度や深さを保ちつつ、見せ方を変える方法は必ずあるはずです。本の物理的な形式も変わっていません。同じサイズで、200〜300ページ。それが正解だと誰が決めたのでしょうか。もっと大きな判型が良いかもしれないし、もっと小さい方が良いかもしれない。1ページの文字数だって決まりはありません。出版業界は何十年も実験を怠り、取り残されてしまったと感じます。
――私は創作講座を受けているのですが、そこでは「1ページ目で読者を掴め」と教わります。書店で1ページ目を見たとき、どうすれば買ってもらえるかと。
私の本でもそれを意識しました。まえがきを10ページほどにし、そこに最も興味深い素材をすべて詰め込みました。その数ページを読むだけで、本全体の内容が掴めるようになっています。
かつての「まえがき」の手法は、「これから面白いことが始まりますよ!」とじらすものでした。しかし、それではもう不十分です。私は意図的にこの手法をとっていますが、結果として読者は「これは面白そうだ」と感じてくれます。これこそが現代に適合した書き方だと思います。書き手も、そして出版社も、そうした変化を求めているのです。
(了)



